歴史・由緒
大稲荷神社の由来と歴史
大稲荷神社の御祭神は、田中大神(たなかのおおかみ)と宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)の二柱です。
どちらも五穀豊穣、方位除け、商売繁盛などの神様で、伏見稲荷大社のご祭神である五柱のうちの二柱でもあります。田中大神は、稲荷神と深い関わりがある神様と考えられ、一説にはその名の通り、田の神様ともいわれています。宇迦之御魂大神は、倉稲魂命とも表記され、稲荷神と同一の穀物や食物を司る神様です。
創建は安土桃山時代の天正18年(西暦1590年)です。小田原城を本拠に関東一円を支配した北条氏が、隆盛を極めていた時代です。
修験者が建てた修験堂に、元武田家の家臣であった曲淵氏が、稲荷大明神をお祀りしたのが始まりといわれています。その後、京都の伏見稲荷大社より田中大神を合祀しています。
一時は荒廃してしまいますが、江戸時代の中期には小田原城の鬼門除け稲荷として再興し、現在の谷津山に社殿が造営されました。
- 御祭神
- 田中大神
宇迦之御魂大神
- 例祭
- 5月4日、5月5日
錦織神社の由来と歴史
錦織神社の御祭神である錦織大神は、もともとは西郡明神と呼ばれていましたが、慶安年中、領主の命により、今の字に改められました。以前は須藤町の「かどや」の隣にあったものを、大正3年に境内に遷座いたしました。
寛永10年(西暦1633年)の大地震により、小田原城は大破し、領内の足柄上下は特に被害が甚大でした。そこで、小田原藩主の稲葉美濃守は、領内の復興のために過酷な年貢を取り立てました。
上郡関本村名主下田隼人は、一家の全滅を覚悟の上で、年貢の軽減を藩主に直訴し、万治3年(西暦1660年)12月23日に処刑されましたが、隼人の一念は見事に達成されました。
生前、隼人は城下に出向いた時には須藤町の郷宿を定宿としていたため、須藤町の人々と自然親密な関係にありました。そこで、町内の人々は共に西郡の為に身を投じた隼人の義侠を徳として、この社に秘に併せ祀ってきたものとされています。
- 御祭神
- 錦織大神
下田隼人命
- 例祭
- 11月17日
愛宕神社の由来と歴史
愛宕神社は「新編相模国風土記」によれば、旧谷津村の守護神であったとされています。
天平宝字年間(西暦757年)、夢中道人の創建で、当時は愛宕山(小田原駅西口にある山)の山上にありました。本地勝軍地蔵は、夢中道人の自作といわれています。元暦中、蓮上院の僧堅雅再建。暦応2年(西暦1339年)に足利尊氏建立。
現在の社殿は、本殿のみが大正末期遷座にされています。江戸に幕府が開かれたときに、拝・幣殿を江戸の愛宕山に移築してしまい、本殿のみが残されたものであると伝えられています。
御手洗石には、講中江戸赤坂田町五丁目と刻まれております。
- 御祭神
- 火乃迦具土神
- 例祭
- 3月19日
時代を越えて小田原を守ってきた神社
小田原城の鬼門である北北東の鬼門除けとして、大稲荷神社は江戸時代に再興されました。小田原城の天守閣は、北北東にある大稲荷神社を向いています。当時は「相模国」と呼ばれた小田原城下全体を守る神社として、大切に守り継がれてきた由緒ある神社です。
1927年に小田原急行鉄道(現・小田急電鉄)が小田原駅に乗り入れた際も、隣駅である足柄駅と小田原駅を結ぶ線路は、大稲荷神社を迂回するように設計されました。また、小田原駅に最も近く、高台にある神社として、有事の際は自衛隊の災害対策の拠点としても活用されることになっています。それほどに、歴史的・地理的に大きな役割と意味を持ち、小田原を御守護してきたありがたい神社です。
永きに亘り受け継がれてきた信仰
ご崇敬の皆様からも、大稲荷神社にお参りすれば命が守られるといわれ、今日も広く信仰を集めています。
大稲荷神社の元宮である田中稲荷には、50年間、欠かさずお参りを続けた方の逸話が残されています。この方は、ちょうどお一日参りをされていた大正12年(西暦1923年)9月1日、ご参拝中に関東大震災に遭いました。しかし、ご自身もご家族も奇跡的に命が守られ無事で済んだそうです。
また、愛宕神社のご神木である杉の木には、背が届かないほどの高い位置に、木の皮が剥がれている部分があります。これは、戦時中の小田原の方々が、お守りとして杉の木の皮を携帯したためです。そして、そのお守りを持って戦地に赴いた方々は、不思議と命が守られ、無事に小田原に戻ることができたと伝えられています。
終戦から70年以上が経ち、すっかり杉の木の背が伸びてしまっても、当社が小田原の皆様の心の支えであった証がしっかりと残っているのです。再建から300年以上が経った今もなお、多くの人々の心のよりどころであり続けています。